太宗は太平興国九年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。
しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ち、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳二年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。
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澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なものであり、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという話が残っている。この逸話が示すように唐末から進んでいた中国の経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。
一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰[注釈 3]に於いて地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。
真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦四年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。
これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽修などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。
強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。
しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。
仁宗は40年の長き治世の末嘉祐八年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王・趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽修らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。