2009年06月17日

城塞(じょうさい、citadel)とは町を防御するための

城塞(じょうさい、citadel)とは町を防御するための要塞。しばしば、王の住む城のことも指す。英語におけるシタデル(citadel)の語は、シティ(city)と同じラテン語の語源(civis、「市民」)をもつ。

城郭都市全体を囲んで外敵から守る城壁(市壁)とは異なり、都市の一角に建つ城塞は、都市の住民たちから城塞内の軍隊・政治家・王侯貴族たちを守るために使われる。城塞は都市を守りつつ、都市住民からも王族らを守るために設計されている。

例えば、1714年に建設されたバルセロナの大規模な城塞「シウタデラ」は、スペイン中央政府に対し17世紀・18世紀にかけて繰り返し反乱を起こしたカタロニア人を処罰し統制するために、商業地区の半分を取り壊して建てられた。19世紀、政治的雰囲気が自由になると、バルセロナ市民は城塞を取り壊し、市の中央公園シウタデラ公園に転用した。

同じような例はハンガリー・ブダペストのゲッレールト(Gellért)の丘に立つ「ツィタデッラ」(Citadella)にも見られ、1848年から1849年にハプスブルク家支配に対し起こった反乱に対して1851年に建設されたが、現在は公園の一部である。
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カナダ・ケベックシティのケベック城塞(ラ・シタデル)は築かれて以来200年以上経ち、英仏間の戦場となった歴史を有するが、現役で軍用に使われる北米最大の城塞であり、フランス語で行われる衛兵交代も有名である。

古代・中世の城塞 [編集]
古代ギリシアでは、城塞は軍を指揮する丘(アクロポリス)の上に築かれ、ポリスに住む人々の暮らしの重要な一部であった。武器や食糧を貯え、戦乱の時には避難および篭城の場所となり、平時には神殿や王宮となっていた。中世ヨーロッパでは城塞は、城郭都市の防衛軍が最後に防衛する場所で、都市の陥落後も防衛側は都市の一角の城塞に立てこもり、いざとなれば背後の田園や丘陵に逃げられるようになっていた。

大砲の発達に伴って稜堡式城壁の研究が進み、塔と堡塁が都市を取り囲んで防衛するようになると、城塞もその重要な役割を占めるようになった。城塞は城壁と稜堡群の内部に置かれることもあったが、経済活動の場所確保のために外郭の一部をなすよう配置されることが多かった。敵が城郭の他の部分に攻撃を加えるような場合でも、城塞は最強の拠点として最後の防衛線となることが期待された。

アラビア語では城と呼んだ。アルジェリアなどでは城壁に囲まれた迷路のような旧市街がカスバと呼ばれたほか、スペインではイスラム教徒の残した城塞(カスバ)をアルカサバ(Alcazaba)と呼んだ。アルカサバはバダホスに最大のものがあるほか、グラナダのアルハンブラ宮殿の一部やマラガ、メリダにもアルカサバは残っている。

ロシア語では城塞は「クレムリ」(クレムリン)と呼ばれ、中世のロシアの各都市にはクレムリが設置されていた。現存するものでは、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、アストラハンなどのクレムリンが代表的なものだが、中でもモスクワのクレムリンとカザンのクレムリンはよく知られている。

海軍用語 [編集]
軍艦、特に戦艦の司令塔など主要部分も、城塞になぞらえ「シタデル」と呼ぶことがある。こうした部分は装甲板で覆われ被弾を防ぐようになっている。

2009年05月31日

澶淵の盟

太宗は太平興国九年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。

しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ち、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳二年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。
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澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なものであり、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという話が残っている。この逸話が示すように唐末から進んでいた中国の経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。

一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰[注釈 3]に於いて地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。

真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦四年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。

これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽修などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。

強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。

しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。

仁宗は40年の長き治世の末嘉祐八年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王・趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽修らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。

2009年04月28日

ナショナリズムの起源

ナショナリズムの起源をめぐっては、大きく二つの見解が挙げられる。ひとつは、ナショナリズムは近代に生じた現象であり、その「起源」を近代以前にさかのぼって求めることはできないとする考え方(近代主義)である。もうひとつは、近代のナショナリズムを成立させるための「起源」が古代より継承されているとする考え方(原初主義)である。

ゲルナー、アンダーソンらは前者の代表的な学者として知られる。前者は前近代においては階級・職業・言語・地理的要因などにより「国民」は分断されており、包括的な共属感情は存在していなかったことを指摘している。それに対して後者はガイウス・ユリウス・カエサルに対し団結し抵抗したガリア人など、ナショナリズムに類似した現象が存在したと主張した。

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両者の主張を統合し、新たな包括的な視座を提示したのがスミスである。スミスはエスニックな共同体である「エトニ」という概念を導入し、近代のネイションと近代以前でも存在したエトニを区別するとともにその連続性を説いた。この連続性にかんするスミスの主張は、一面において「ネイションは完全に近代の発明である」というゲルナー、アンダーソン、ホブズボームらの見解に反している。しかし同時にスミスは、過去に存在したエトニが現在まで間断なく存在し続けたとは限らず、またエトニとネイションの水平的な広がりも一致しないとして原初主義をも否定している。
ナショナリズムは、18世紀後半のフランスから勃興していった。1789年に始まったフランス革命は、これまでの身分制社会の構造(旧体制・アンシャンレジーム)を解体するに至った。周辺諸国による対仏大同盟など革命が危機に陥る中で、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトは、自由かつ平等な国民の結合による国家をうち立て、一時はヨーロッパ大陸を支配した。

ナポレオンによって組織された国民軍は、各地に遠征して凄惨な被害を与えていった。しかし、その一方で、身分制が残存するヨーロッパ各国に、フランス革命が生んだ普遍的理念としての自由・平等・博愛の精神を広めていくことにもなった。したがって、ナポレオンの失脚後は、ヨーロッパ各国の君主は革命の再発をおそれてウィーン体制を構築し、ナショナリズムの抑圧を図った。その点で、この時代のナショナリズムは、国家権力や旧社会秩序からの解放と主体性の回復であり、自由主義といった理念と結びつくものであった。

1848年革命によってウィーン体制が崩壊したことで、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパに新たな状況が生み出された。フランスのナポレオン3世は、初代ナポレオンの威光に依存しつつもナショナリズムの擁護者として振る舞い、イギリスでは、漸進的に自由主義的改革が進められ、国民の諸権利が保障されていった。また、ラインラントやピエモンテに勃興した産業資本家は、統一市場の必要性からそれぞれドイツ・イタリアの軍事統一を支持することになり、1860年代から70年代にかけて、ナショナリズムに基づくイタリア・ドイツの武力統一を完了させた。これ以降は、積極的に政府が国民統合を深化させる(国民化)運動としてのナショナリズムへと移行していくことになる。

2009年04月12日

クラーケン

クラーケン(Kraken)は、その多くが巨大なタコやイカのような頭足類の姿で描かれる、北欧伝承の海の怪物。

ノルウェー近海やアイスランド沖に出現したとされている。 19世紀のアフリカ南部はアンゴラ沖に現れた海の怪物もクラーケンでなかったかと言われている。

Kraken は、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語)に見られる krake (クラーケ。意:pole、post、竿、棒、柱)に -n が付いた定冠詞形である。 この語は英語の crook (意:湾曲した杖、羊飼いの杖〈shepherd's crook〉、司教杖、等)や crank (意:捻じ曲がったもの、曲がりくねったもの、変わり者、つむじ曲がり、奇想のもの、〈機械の〉クランク、〈道路の〉クランク、等)とゲルマン語派のレベルで同根であり、怪物クラーケンの怖ろしい湾曲性の腕を想起しての名付けであったことが伺える。

その後、北欧においてこの怪物の名は「畸形的な動物」を意味するようになっていたらしい。 ここに見られる「畸形」の語義は英語 crank の中にもニュアンスとして現れている。
古代スカンディナヴィアのサガに「クラーケン」の名は見られない。 しかし、類似する海の怪物として hafgufa と lyngbakr を挙げることができる。 これらは『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』中のエルヴァル・オッド(Orvar-Odd)の物語などで語られている。

姿・大きさ [編集]
クラーケンの姿や大きさについては諸説がある。 巨大なタコやイカといった頭足類の姿で描かれることが多いが、ほかにも、シーサーペント(怪物としての大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニ等の甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々に描かれてきた。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった種類の伝承が数多く残っている(日本で伝承される赤鱏〈あか-えい〉の島もこれに類似する)。

15世紀アイルランドの聖ブレンダン伝承に登場するクラーケンの場合は、島と間違えて上陸したブレンダンが祝福のミサを終えるまで動かずにいたと伝えられる。体長は2.5kmに及んだというこの“穏やかな”クラーケンには、クジラがその実体ではなかったかとの憶測がある。実際にクジラには漁業神や海神と見なされる側面があり、このような逸話が世界中に数多く存在する。

また、18世紀ノルウェーの司教ポントピダン(Erik Pontoppidan)が記すところでは、クラーケンが吐いた墨で辺りの海が真っ黒になったとされ、ここでは頭足類の一種と認識されていたようである。

※クラーケンを動物、とりわけ頭足類の一種と考えるのであれば、どれほど巨大であってもマッコウクジラやシャチといった天敵の存在が想定されるため、離脱用として煙幕のように墨を吐く機能を保持していることは生態的に自然ではある。

海の魔物
古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海の怪は大きな脅威であり、その象徴ともいえるクラーケンは、彼らから怖れられる存在であった。

凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶わない。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を一人残らず喰らってしまうからである。
というような伝承が語り継がれた。船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられていたのである。それは近代においても変わることが無く、幽霊船マリー・セレスト号が見つかったとき(1872年)、この船が無人となった理由として様々な検証・憶測がなされたが、その中には「乗員が全てクラーケンの餌食になった」という説も存在した。

だが、全ての伝承で危険な生物として扱われている訳でもなく、温和しい無害な生物として描かれる事も。

科学の時代に [編集]
現代的な船舶は自走能力が高く風の有無にかかわらず航行可能であるため、仮にクラーケンが実在したとしても襲われることはまず無い、という考え方がある。勿論これは「船舶が故障や燃料切れを起こしておらず、十分な自走能力を備えている」「船舶自体に十分な大きさがある」「クラーケンのサイズや運動能力が一定の範囲内に収まっている(全長が数kmに達する活発な生物であれば、タンカーや空母級の船舶を襲う事も考えられる)」といった場合の話である。加えて、この怪物が北欧の海に特有であると限るようなことでもない。

巨大頭足類
クラーケンのモデルではないかと取り沙汰されることの多いダイオウイカ(Architeuthis)は現生最大級の頭足類(巨大イカ)であり、平均全長約10m、信用に足る最大個体の記録は全長約13mである。しかし、推定全長20mともされる不確定記録がある。 これを上回るダイオウホウズキイカ(Mesonychoteuthis hamiltoni)は現生最大とされ、その全長は14mに及ぶ。やはり、推定全長20mともされる不確定記録がある。 深海生の彼らには謎が多く、推論、あるいは希望的憶測を生む要素を十分に持っている。

フィクション [編集]
映画
『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』では、深海に潜んでいる巨大なイカがドラえもん達を襲うシーンがある。
ギリシア神話をモチーフとしたレイ・ハリーハウゼン監督の特撮映画『タイタンの戦い』(1981年アメリカ製)に登場するクラーケンは、「ワニのような皮膚、魚の鰭(ひれ)様の大小の突起物を持つ人型の胴体に、手と爪があり関節の無いタコの触腕様の4本の腕、嘴(くちばし)のある竜ともサルともつかない頭部を具えた、異形(いぎょう)の巨大怪獣」として描かれている。この一種独特の個性を放つクラーケンのイメージは、それ自体が、後に続く多くの海の怪物・怪獣に大きな影響を与えている。
1998年のアメリカ映画『ザ・グリード』では、客船を襲った正体として巨大なタコの化け物が登場する。このタコは触手にも口があったため当初はワーム類の一種と推測が立てられていたが、終盤でその全体像が明らかになった。
2006年のアメリカ映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』には、幽霊船の船長デイヴィ・ジョーンズに操られるタコのような触手と、イカのようなエンペラを持ったクラーケンが登場する。
東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』にも、クラーケンをモチーフとした大蛸(おおだこ)が南海の怪物として登場する。もっとも、造形的には巨大化したマダコ以外の何ものでもない(場面の多くは本物のマダコを撮影している)。なお、この大蛸は『ウルトラQ』では「大蛸スダール」として登場している。
小説
小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品『クトゥルフ神話』に登場する古代の邪神クトゥルフは、クラーケンをイメージに多分の影響を受けて創作されている。
栗本薫の小説『魔界水滸伝』に登場するダークパワーの首魁クトゥルーは、その姿から「クラーケン」と呼ばれることがある。
J・K・ローリングの作品『ハリー・ポッター』シリーズでは、ホグワーツ魔法魔術学校の池にクラーケンをモチーフとしたと思われる巨大イカが住んでいる。この巨大イカは昼休みに生徒と一緒に泳いだり、浅瀬で日向ぼっこしている所、生徒に足を擽られたり、池に落ちてしまった生徒(デニス・クリービー)をイカダに戻してあげたりと、無害かつ温厚な性格をしている。
ゲーム
ゲームの世界では敵方として登場することが多く、特にロールプレイングゲームでは頭足類をモチーフとしたモンスターとして中ボスなどの強敵に設定されることが多い。『ファイナルファンタジー』に登場するものなどはその典型と言える。

バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

2009年03月28日

ヒト免疫不全ウイルス

ヒト免疫不全ウイルス(ヒトめんえきふぜんウイルス、英: Human Immunodeficiency Virus, HIV)は、人の免疫細胞に感染し免疫細胞を破壊して、最終的には後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症させるウイルスである。俗に「エイズウイルス」と呼ばれることがあるが、正式な名称ではない

ウイルスの分類上は、エンベロープを持つプラス鎖の一本鎖RNAウイルスであるレトロウイルス科レンチウイルス属に属する、HIV-1(Human Immunodeficiency Virus type1)とHIV-2(Human Immunodeficiency Virus type2)が存在する。

霊長類を自然宿主とするサル免疫不全ウィルス(Simian Immuno-deficiency Virus, SIV)が、突然変異によってヒトへの感染性を獲得したと考えられている。ウイルスの塩基配列を比較すると、HIV-1はチンパンジーから分離されたSIVcpzに近く、HIV-2はマカクやマンガベーなどのサルから分離されたウイルスSIVmacやSIVsmmに近い。この様な事から、SIVに感染したサルからヒトへと感染し、HIVに進化した物と考えられている。HIV-1とHIV-2の基本的な遺伝子の構造はほぼ同じであるが、塩基配列の相同性は低く60%ほどである。最も大きな遺伝子の相違は、HIV-1にはvpu、HIV-2にはvpxがそれぞれに存在する事である。またこの相違はSIVcpzとSIVsmmの間にも見られる事から、HIV-1とHIV-2はそれぞれ独立した祖先から、人間に感染する能力を持ったウイルスに進化したものと考えられている。

HIV-1は塩基配列により3群に分類されている。グループM(Major)、グループO(Outlier)、グループN(non-M/non-O)に分けられるが、世界的に分布しているウイルスの多くがグループMに属している。グループMはさらにA、B、C、D、E(後に組換え体であるCRF01_AEである事が判明。純粋なEは未発見)、F、G、H、J、Kの10のサブタイプに分類される。更にこのサブタイプ間での組換え体が存在し、CRF(circulating recombinant form)が15種類確認されている。日本の感染者の主なサブタイプは、BとCRF01_AEであり、サブタイプBがおよそ75%、CRF01_AEが20%、残りがそのほかのサブタイプとなっている。

バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ


2009年03月12日

ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、

ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院(ダフニしゅうどういん、オシオス・ルカスしゅうどういん、ヒオスとうのネア・モニしゅうどういん)は、ギリシャ共和国にある東ローマ帝国の時代に建設されたギリシャ正教:正教会の修道院である。いずれも1990年にユネスコの世界遺産に登録されている。
トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院は、いずれも中期ビザンティン時代に建設された修道院である。修道院の中央聖堂は、すべてスクィンチ式教会堂と呼ばれる形式で、また、ギリシャ共和国で11世紀に作成されたモザイクを今に残すものは、この三つの修道院以外にはない。ネア・モニ以外の修道院については、建設の過程はほとんど知られてない。

ダフニ修道院
アテネからバスで30分足らずの場所にある修道院。修道院の設立に関する書類は全く残っていないため、知られていることはほとんどないが、中央聖堂のモザイクの様式から11世紀の設立と考えられている。中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で、成熟した中期ビザンティンのモザイクを見ることができる。
オシオス・ルカス修道院
9世紀に現れた奇跡を起こす克肖者ルカのために建設された修道院。中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂であるが、それに付随するかたちで4円柱式内接十字型の教会堂、生神女聖堂(テオトコス聖堂)がある。建物としては生神女聖堂のほうが古い。ダフニ修道院と同じく、建設の経緯などの資料は全く残っていないが、生神女聖堂は恐らく966年に、中央聖堂は1048年に完成したものと考えられる。
ネア・モニ修道院
東エーゲ海のヒオス島にある修道院で、他の2つの修道院と異なり、建設の経緯や年代がある程度判明している。その起原は、ヒオス島の修道士ニケタスとヨアンニスが、追放中であったコンスタンティノス・モノマコスが皇帝になると予言し、後に彼がコンスンティノス9世として即位したことに始まる。コンスタンティノス9世は、2人のために修道院を建設し、莫大な寄進と多くの特権を与えた。こちらの中央聖堂は、単純型スクィンチ式教会堂と呼ばれる形式である。

2009年02月24日

ナレッジマネジメント

ナレッジマネジメントとは、主に暗黙知を明示知に変換することにより、知識の共有化、明確化を図り、作業の効率化や新発見を容易にしようとする企業マネジメント上の手法。

マイケル・ポラニーの著書『暗黙知の次元』に一つの端を発するアイデアだが、情報技術の進展、特にインターネットと人工知能技術の発展によって、情報工学や経営学の対象となった。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング


「個人の知識を組織的に共有し、より高次の知識を生み出す」ということを主眼に置いたナレッジマネジメントを実現する場合、そのフレームワークとして以下の4段階のプロセスが提示されている。このプロセスは、各段階の英語名称の頭文字をとって“SECI(セキ)プロセス”、あるいは単に”SECI”と呼ばれる。これは野中郁次郎(一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授)と竹内弘高(一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授・研究科長)が執筆した"The Knowledge Creating Company"『知識創造企業』(梅本勝博訳、東洋経済新報社)において、提唱された。 知識とは「正当化された真なる信念(Justified true belief)」であり、個人と個人の相互作用、あるいは組織と組織の相互作用により、ダイナミックに変化・深化・進化していくものであるという考えの下に構築されている。

共同化
共同化(Socialization)とは、組織内の個人、または小グループでの暗黙知共有、およびそれを基にした新たな暗黙知の創造である。

表出化
表出化(Externalization)とは、各個人、小グループが有する暗黙知を形式知として洗い出すこと。

結合化
結合化(Combination)とは、洗い出された形式知を組み合わせ、それを基に新たな知識を創造することである。

内面化
内面化(Internalization)とは、新たに創造された知識を組織に広め、新たな暗黙知として習得することである。

具体的な手法
主に以下の手法があるが、それぞれ独立したものでなく、相互依存的なものである。

データマイニング(w:Data mining)
人工知能や統計学を利用してデータから知識を取り出そうとする試み。主に共起現象を探り、セールスに結びつけようとしている。

例1:スーパーでビデオとガムテープが共に売れる → 両者を同じ場所に置く。
例2:本Aを買う人は、後に本Bを買うことが多い → 購入者に本Bを薦めるダイレクトメールを送る。
従来の統計学と大差ないが、POSやオンラインショッピングによる大量のITデータの中から法則性を見つけ出すことに主眼が置かれている。

データウェアハウス(w:Data warehousing)
データを多次元的に処理することにより、通常では察知しにくい傾向性を発見する技法。多次元データベースなど、幾つもの次元によって処理が可能なソフトウェアが開発されている。

例:時間、空間、取り扱い物によって販売量が明示される → 時系列や地域、取り扱い物の傾向が分かる。

知識共有化(knowledge sharing)
電子掲示板やメーリングリスト、知識ベース、オンラインコラボレーションなどを使って、一部の人の資産であった知識の、集団全体への共有を図るもの。基本的には文字や印刷といったメディアの問題であるが、電子通信技術の一新によって、電子メール・電子掲示板に代表されるような新しい共有化のあり方が模索されている。

具体的には、企業内ではグループウェアなどを使って知識共有の試みが行われることが多い。インターネット上でも、OKWave、はてなのように広範な分野を扱うサイトや、Apple Support Discussion、プロフェッショナル アソシエイツのような特定者向けサイトによる知識共有化の試みが始まっている。近年、エンタープライズ2.0と呼ばれる大企業での情報共有が積極的に行われるようになってきた。代表格はリアルコムである。

可視化(visualization)
人間における視覚の優位性を利用し、多次元、多要素で理解しにくい情報を、見える形で表現し、理解しやすくさせるもの。原理的にはグラフや図画であるが、ナレッジマネジメントではCGを利用した立体的で動的な画像を使って表現するケースが多い。

様々な手法はあるものの、通常の技法と同じく、それを使いこなすのは熟練と才能が必要とされるため、電子メールやQ&A知識ベースなど幾つかを除けば、実際に有効活用されている例は少ない。
また暗黙知を明示化するには原理的に大きな困難が伴うため、共有化された知識は余り役に立たない常識的なものがほとんどで、実際にほしい熟練した技能や知恵は掘り出せないことが多いため、研究自体は尻すぼみになっている。

2009年02月08日

特殊切手

特殊切手(とくしゅきって)とは、国家的宣伝、キャンペーン、文化財の紹介などの意図をもって発行される切手に対する呼称である。

特殊切手は毎年同時期に発行されるものや、特定のテーマを与えられてシリーズとして発行されるものもある。また記念切手と同じように、一定枚数のみ印刷され、場合によっては販売される郵便局や販売期間、郵便に使用できる期間までも制限されるのが特徴があるため、記念切手の一種でもある。ただし、このような呼び分けは日本および中国におけるものである。そのため実際には両者の区別も曖昧な面もある。また、2008年現在日本郵便は記念切手とシリーズ切手を一括して『特殊切手』と表現[1]している。


[編集] 欧米の特別(特殊)切手

1898年にカナダで発行されたクリスマスの文字入り切手欧米圏における特殊切手に類する呼称をする切手として、スペシャル(特別)切手がある。これは毎年恒例行事の際に発行される、切手について呼ばれるものである。その類型に入るものとして、クリスマスにクリスマス・カード用に用意されるクリスマス切手や、バレンタイン(結婚式の案内状の郵送にも使用される)のラブ切手、そして中国や日本など年賀状に使用する年賀切手などのように、その季節の行事のために挨拶状(グリーティングカード)を郵送するために大量に使用される。

また、独立記念日のような恒例行事を記念する切手や特定のキャンペーンをテーマにするような切手が毎年発行されるが、こちらは記念切手の性格ももつ切手であると言える。

一方、欧米においては、日本でいうところの特殊切手は全て記念切手の範疇に含められてしまう。ただし、観光宣伝や文化財の紹介など、なんらかのテーマで発行される切手は世界各国に存在する。


[編集] 日本の特殊切手
日本における最初の特殊切手は、1935年12月1日に発行された年賀切手である。日本では既に1899年から年賀郵便特別配達のサービスを行っていたが、この時初めて発行されたのが「昭和11年用年賀切手」であった。

特定のテーマを選定してシリーズ化した特殊切手として「国立公園切手」がある。1936年7月10日に「富士箱根国立公園」の風景を描いた4種セットが発行され、1941年まで8回発行された。そのうち2種は当時日本の植民地であった台湾の国立公園を描いたものであり、全国発売はされず台湾と東京中央郵便局のみで発売された。なお、国立公園のシリーズは戦争による中断を挟んで1956年まで続けられた後に、1962年から1974年まで再び発行されたため、切手収集家は前者を「第一次国立公園切手」、後者を「第二次国立公園切手」と呼称する。

2009年01月23日

マングースは、ネコ目(食肉目)

マングースは、ネコ目(食肉目) マングース科に属する動物の総称である。体長は23?65cm、長い胴体と長い尾、短い脚が特徴で、体色は灰色または褐色である。アジア、アフリカ、西南ヨーロッパ、マダガスカル島などに生息している。「ネコイタチ」の異称がある。かつてはジャコウネコ科に分類されていた。

食性は多様で、昆虫から爬虫類などの小動物、ウサギ程度の大きさまでの哺乳類、鳥類やその卵、果実などを食べる。ヘビ毒に免疫をもっているわけではないのだが、猛毒をもつヘビに対しても果敢に攻撃を仕掛け、捕食してしまう種もいる。ネズミやヘビを駆除することを目的として世界各地に移入されているが、むしろニワトリなどが食害を受けたり、固有種である小動物の生息が脅かされるなどの問題が生じている。このためアメリカ合衆国では、マングースの輸入を禁じている。

マングースは数十匹単位の群れを構成する。 この群れは非常に高度な組織化がなされており、一部のイヌに見られる「猟の間の子守役」「子供の教師役(通常雄がなり、マンツーマンで対応する)」など役割分担も存在する。 また非常に知能も高く、卵を石にぶつけて割るなどの行動も観察されている。

日本に於いてはエジプトマングース属のジャワマングースがハブ対策として沖縄島、奄美大島に放獣され定住している。しかし野生の状態では好んでハブと戦うことはなかったうえ、絶滅危惧種を捕食する等、生態系に悪影響を与えていると危惧され、駆除が進められている。

分類
マングース科には18属39種が含まれる。多くの種が夜行性で地上で生活しているが、樹上や沼沢地に生息する種もいる。

Atilax属

Atilax paludinosus ヌママングース
Bdeogale属

Bdeogale crassicauda フサオマングース
Bdeogale jacksoni ジャクソンマングース
Bdeogale nigripes クロアシマングース
Crossarchus属

Crossarchus alexandri アレキサンダークシマンセ
Crossarchus ansorgei アンゴラクシマンセ
Crossarchus obscurus クシマンセ
Crossarchus platycephalus ベニンクシマンセ
Cynictis属

Cynictis penicillata キイロマングース
Dologale属

Dologale dybowskii プゥサルグマングース
Galerella属
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

Galerella flavescens Black Slender Mongoose
Galerella pulverulenta Cape Grey Mongoose
Galerella sanguinea Slender Mongoose
Galerella swalius Namaqua Slender Mongoose
Helogale属

Helogale hirtula ヒガシコビトマングース
Helogale parvula コビトマングース
エジプトマングース属 Herpestes

Herpestes brachyurus チビオマングース
Herpestes edwardsii ハイイロマングース
Herpestes fuscus インドトビイロマングース
Herpestes ichneumon エジプトマングース
Herpestes javanicus or Herpestes auropunctatus ジャワマングース Small Asian mongoose
Herpestes naso ハナナガマングース
Herpestes palustris Bengal Mongoose
Herpestes semitorquatus クビワマングース
Herpestes smithii アカマングース
Herpestes urva カニクイマングース
Herpestes vitticollis クロスジマングース
Ichneumia属

Ichneumia albicauda シロオマングース
Liberiictus属

Liberiictis kuhni リベリアマングース
Mungos属

Mungos gambianus ガンビアマングース
Mungos mungo シママングース
Mungotictis属

Mungotictis decemlineata ホソスジマングース
Paracynictis属

Paracynictis selousi セラスマングース
Rhynchogale属

Rhynchogale melleri メラーマングース
スリカータ属 Suricata

Suricata suricatta ミーアキャット(スリカータ)

2009年01月16日

推古34年(626年) - 誕生

せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

推古34年(626年) - 誕生
皇極4年6月14日(645年7月12日) - 立太子
斉明7年7月24日(661年8月24日) - 称制
天智7年1月3日(668年2月20日) - 即位
天智10年12月3日(672年1月7日) - 46歳で死去(『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階? 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある)
天智天皇が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。このことについて議論されている説がいくつか存在する。 

天武天皇を推す勢力への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8?9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては『「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ』との主張があるが、『「日本書紀」に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は本朝皇胤紹運録等が採用している614年だ。』との反論、『古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、直ちに即位しなかった)の為に誤差が生じたのだ。』との反論、また「日本書紀」と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なる為、同一には扱えないとの意見もある。(「天武天皇#年齢」の項も参照の事)
乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。近年中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる。また、日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。また、この説では皇極天皇の退位の理由や入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説である。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証は無い。
天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにも拘らず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にも直ちに即位せずに皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。