2009年12月04日

日本国大君

日本国大君(にほんこくたいくん)は、日本の江戸時代に対外的に用いられた、徳川将軍の外交称号。江戸幕府が外交文書(国書)において使用し、初めは朝鮮との間で用いられ、のちに琉球やヨーロッパ諸国との外交関係でも用いられた。略称は「大君」。
幕府の長である征夷大将軍、略して将軍は、字義的には単なる軍事司令官の称号に過ぎない事は、徳川幕府としても十分承知していた。そのため外交において、日本を代表する存在として認められる称号を用いる必要があった。

大君の語は『易経』に由来し、「大君命あり、国を開き家を承く」「武人大君と為る」「知あって臨む。大君の宜(ぎ)なり」などと見えるもので、いずれも天子を指す。また、英語で「実力者」や「大物」を意味する「tycoon」の語源となった。
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日本で支配者を意味する称号としては、室町時代に足利将軍(室町殿)が中国の明朝から冊封を受けて「日本国王」となり、外交文書においては国王号が使用されていた。足利義満は最初、征夷大将軍を名乗ったのであるが、明より外交相手として認めてもらえなかった経験によるものであるが、日本国王は中華王朝との宗属関係を意味する号であり、朝廷からは「他国より王爵を得た」という批判を受けた。

江戸時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶していた日朝、日明関係の国交修復がなされ、2代将軍徳川秀忠の時代には対馬の宗氏を仲介に李氏朝鮮との交渉が行われる。当時、将軍は「日本国源秀忠」という肩書きを使用しない署名を用いており、朝鮮に送る国書もこの形式がとられた。しかし朝鮮との貿易に依存していた宗氏は独断で国書を偽造し、国書の署名を「日本国王」として貿易の開始を取り付けた。

2009年11月28日

スウェーデンで開発された指向性の対車両地雷

Fordonsmina 13 (Frdm 13) は、スウェーデンで開発された指向性の対車両地雷である。国際的にはFFV 013と呼ばれる。
本体・三脚・ワイヤーといった部品で構成されており箱状のケースに収めされている。組立・設置後はワイヤーを介し発火具で手動で起爆させ、爆発すると複数の金属球を前方方向へ飛散させる。その為、対車両地雷として開発されたものの、実際には対人地雷の代替として対人使用も想定されている。

陸上自衛隊でもFFV 013をライセンス生産した物を「指向性散弾」として導入した。配備当初の制式名称は「指向性散弾地雷」でだったが、1998年に対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約を批准、発効した後は地雷という言葉が削除され指向性散弾へと変更された。
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現在では、指向性散弾を代替する装備として2002年から導入が開始された対人障害システムの構成要素の一つとして、「指向性散弾」を指令装置・監視装置を用いる事で遠隔地から無線で操作出来る様にした「障害II型」として配備されている。

木などに取り付ける形式のFordonsmina 13R (Frdm 13R) という型もあり、こちらは国際的にFFV 013Rと呼ばれる。Fordonsmina 13 (Frdm 13) と本体を比べると、爆薬など内容物を減らすことで軽量化されており、幅・高さが同一なものの奥行きが短い。

2009年11月23日

酒器

酒を飲むときに用いられる道具で、日本の生活をきめ細やかに支えている。

盃(さかづき)
「盃を交わす」「盃を取らせる」といった表現があるように、日本文化の中では盃はたんに酒を飲む容器であるだけではなく、人間関係、名誉、格式などのさまざまな文化事象と関係した複雑な媒体である。今日の私たちが思い描くのは「塗り盃」だが、江戸時代後期には陶磁器の盃も用いられた。
徳利(とっくり / とくり)
今でも酒を注ぐのに用いられているが、近代に入り、瓶売りが一般化するまで、量り売りが一般的で、酒屋は徳利に入れて酒を販売していた。販売用の徳利は個人の所有ではなく酒屋の貸し物であることが普通で、酒屋の屋号が大きく書かれていた。江戸時代以前は上方と江戸では色が違っていた。上方では、五合あるいは一升が入る、茶色がかった陶器。江戸では、ねずみ色の陶器か取っ手のついた樽であった。
猪口(ちょこ / ちょく)
現在では徳利から酒を受け、飲むのに用いる小さな器だが、徳利とセットで使うようになったのはそんなに古いことではない。江戸時代では上方でも江戸でも、宴の初めのうちは盃で酒を受け、宴も半ばを過ぎ座がくだけてくると猪口に変えたという。
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銚子(ちょうし)
現在も使われる、燗をつけた酒を移し入れる器を指すが、時代を下るに従って小型になってきている。江戸時代、上方では御殿から娼家に至るまでどこでも銚子で燗をつけていたが、江戸では銚子は正式の膳である式正(しきじょう)にのみ使うものであったという。現代では銚子と徳利はほぼ同じものとして扱っているが、江戸時代には別物であった。江戸時代中期ごろまでは、宴も初めのうちは銚子を使い、三献すると徳利に切り替えた。やがて初めから徳利を用いるようになり、江戸時代末期には大名ですら酒宴で徳利で酒を飲むようになったという。

2009年11月03日

だんご汁

だんご汁(だんごじる)とは、大分県を中心に食される九州の郷土料理[1]。大分県の「手延べだんご汁」は農山漁村の郷土料理百選に選定されている。

小麦粉で作った平たい麺(だんご=だご)を味噌(または醤油)仕立ての汁に入れたものである。汁にはごぼう、にんじん、しめじ、豚肉などが入り豚汁に似ている。

だんご汁の麺をきな粉と砂糖でまぶした料理がやせうまである。
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麺ではなく、小麦粉を練ってそれを手で引き延ばしただんご状のものを用いる地域もある。大分県では大分市内の一部でおこなわれており、だんご汁という呼び方のほかにほうちょうと呼ばれることもある。これには鮑腸の字を当て、大友宗麟に対して鮑の腸の代わりとして供されたのが起源だとする昔話が伝わっているが、疑わしい。ほうちょうの語からはほうとうとの関連を指摘する説もある。福岡県ではだごと呼ばれる。

平成17年(2005年)度に農林水産省が実施した食文化の継承についてアンケート調査によれば、今住んでいる地域の知っている郷土料理として、だんご汁を挙げた人が最も多かった[2]。これは、だんご汁を郷土料理とする地域が広いことも一因と考えられるものの、だんご汁の知名度の高さを示すものと言える。

2009年10月26日

月に接近した最初の人工物体は

月に接近した最初の人工物体は、ソビエト連邦のルナ計画によって打ち上げられた無人探査機ルナ1号で、1959年1月に月近傍5,995 kmを通過した。ソビエト連邦は引き続き無人探査機ルナ2号で月面到達に成功した。ルナ2号は1959年9月13日に月面へ着陸・衝突している。月の裏側を初めて観測したのは1959年10月7日に裏側の写真を撮影したルナ3号。初めて軟着陸に成功したのはルナ9号で、1966年2月3日に着陸し月面からの写真を送信してきた。1966年3月31日に打ち上げられたルナ10号は初めて月の周回軌道に乗った。

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しかし、人間を月に送ることに成功したのはアメリカである。アメリカは1959年3月3日に打ち上げられたパイオニア4号で初めて月の無人探査に成功し、1961年5月25日に行なわれた「アメリカは10年以内にアメリカ人を月に送り、無事地球に帰還させることを約束すべきだと信じます。」というケネディ大統領の声明もあって、ジェミニ計画を経てアポロ計画が行われることとなった。レインジャー計画(衝突)、サーベイヤー計画(軟着陸)、ルナ・オービター計画(周回)などにより有人機の着陸に適した場所が選ばれ、1969年7月20日、アポロ11号が静かの海に着陸しニール・アームストロング船長が人類で初めて月面に降り立った。このアポロ計画は1972年のアポロ17号まで続けられた。なお、アポロ13号は事故(液化酸素タンクの爆発)により、月面に着陸せずに、月の軌道を周回して不要になったロケットパーツを月に落下させて人工地震を起こさせただけで、地球に帰還した(帰還のミッションは非常に困難なものであった)。

しかしこのような探査には高度な技術と莫大な費用が必要であり、アメリカではアポロ20号まで予定されていたが予算の削減で17号で終わった。

月に接近した最初の人工物体は

月に接近した最初の人工物体は、ソビエト連邦のルナ計画によって打ち上げられた無人探査機ルナ1号で、1959年1月に月近傍5,995 kmを通過した。ソビエト連邦は引き続き無人探査機ルナ2号で月面到達に成功した。ルナ2号は1959年9月13日に月面へ着陸・衝突している。月の裏側を初めて観測したのは1959年10月7日に裏側の写真を撮影したルナ3号。初めて軟着陸に成功したのはルナ9号で、1966年2月3日に着陸し月面からの写真を送信してきた。1966年3月31日に打ち上げられたルナ10号は初めて月の周回軌道に乗った。

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しかし、人間を月に送ることに成功したのはアメリカである。アメリカは1959年3月3日に打ち上げられたパイオニア4号で初めて月の無人探査に成功し、1961年5月25日に行なわれた「アメリカは10年以内にアメリカ人を月に送り、無事地球に帰還させることを約束すべきだと信じます。」というケネディ大統領の声明もあって、ジェミニ計画を経てアポロ計画が行われることとなった。レインジャー計画(衝突)、サーベイヤー計画(軟着陸)、ルナ・オービター計画(周回)などにより有人機の着陸に適した場所が選ばれ、1969年7月20日、アポロ11号が静かの海に着陸しニール・アームストロング船長が人類で初めて月面に降り立った。このアポロ計画は1972年のアポロ17号まで続けられた。なお、アポロ13号は事故(液化酸素タンクの爆発)により、月面に着陸せずに、月の軌道を周回して不要になったロケットパーツを月に落下させて人工地震を起こさせただけで、地球に帰還した(帰還のミッションは非常に困難なものであった)。

しかしこのような探査には高度な技術と莫大な費用が必要であり、アメリカではアポロ20号まで予定されていたが予算の削減で17号で終わった。

2009年10月15日

心の哲学における機能主義は

心の哲学における機能主義は、同一説の不十分さに対して、ヒラリー・パトナムやジェリー・フォーダーによって定式化された。パトナムやフォーダーは、心の状態を、経験主義的な心の計算理論の観点からとらえる。ほとんど同じか少し遅れて,D.M.アームストロングとデイヴィド・ルイスは、素朴心理学の心の概念がどのような機能を果たしているかを分析する機能主義の一種を定式化した。最後に、ウィトゲンシュタインの「(語の)意味とはその用法である」というアイデアに由来するが、ウィルフリド・セラーズとギルバート・ハーマンによってかなり発展した意味の理論としての機能主義の一種が登場した。

これらさまざまなタイプの機能主義に共通するのは、心的状態は他の心的状態・感覚的インプット・行動的アウトプットとの因果関係によって特徴づけられる、というテーゼである。つまり、機能主義は心的状態が物理的にどう実現しているかを心的でない「機能的な」性質を使って特徴づけ、そうすることでそうした実現のされ方の細部を取り除いた抽象化を行うのである。たとえば、肝臓は、科学的には、血液をろ過し一定の化学的なバランスを保つという機能的な役割によって特徴づけられる。この観点からすると、肝臓が有機的な組織であろうとプラスチックのナノチューブであろうとシリコンチップであろうと関係ない。というのも、肝臓が果たす役割や他の臓器との関係こそが肝臓を定義するからである。
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多くの哲学者たちが、心身関係に関する次の二つの信念をかたく信じている。1)物理主義は正しく、心の状態は物理的状態であるにちがいない。しかし2)還元主義者が出す結論はすべてが満足のいくものとはいかない:心の状態は行動や脳の状態や機能の状態などに還元できない。

2009年07月07日

貴族が鷹狩や守衛に使うイヌを飼育する職

奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使うイヌを飼育する職として犬養部(犬飼部)が存在した。鎌倉時代には武士の弓術修練の一つとして、走り回るイヌを・引目矢(ひきめやー丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった。 江戸幕府中期、江戸では野犬が多く赤ちゃんが食い殺される事件もあった。五代将軍徳川綱吉は戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」(1685年 - 1709年)において、イヌは特に保護(生類憐みの令は人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され、元禄9年には犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰までうけている。
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綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名された。綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、かごで運ばせていた。この法令が直接適用されたのは幕府の天領(直轄領)であったが、間接的に適用される諸藩でも将軍の意向に逆らうことはできなかった。一般に明治以前までは農村などでは狸や狐と同様に食用とされることもあったが、食糧難の戦後暫くまではその風習は各地で残り、忠犬ハチ公の子孫が盗難にあい食べられたという記事が当時の新聞に残る。

2009年06月17日

城塞(じょうさい、citadel)とは町を防御するための

城塞(じょうさい、citadel)とは町を防御するための要塞。しばしば、王の住む城のことも指す。英語におけるシタデル(citadel)の語は、シティ(city)と同じラテン語の語源(civis、「市民」)をもつ。

城郭都市全体を囲んで外敵から守る城壁(市壁)とは異なり、都市の一角に建つ城塞は、都市の住民たちから城塞内の軍隊・政治家・王侯貴族たちを守るために使われる。城塞は都市を守りつつ、都市住民からも王族らを守るために設計されている。

例えば、1714年に建設されたバルセロナの大規模な城塞「シウタデラ」は、スペイン中央政府に対し17世紀・18世紀にかけて繰り返し反乱を起こしたカタロニア人を処罰し統制するために、商業地区の半分を取り壊して建てられた。19世紀、政治的雰囲気が自由になると、バルセロナ市民は城塞を取り壊し、市の中央公園シウタデラ公園に転用した。

同じような例はハンガリー・ブダペストのゲッレールト(Gellért)の丘に立つ「ツィタデッラ」(Citadella)にも見られ、1848年から1849年にハプスブルク家支配に対し起こった反乱に対して1851年に建設されたが、現在は公園の一部である。
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カナダ・ケベックシティのケベック城塞(ラ・シタデル)は築かれて以来200年以上経ち、英仏間の戦場となった歴史を有するが、現役で軍用に使われる北米最大の城塞であり、フランス語で行われる衛兵交代も有名である。

古代・中世の城塞 [編集]
古代ギリシアでは、城塞は軍を指揮する丘(アクロポリス)の上に築かれ、ポリスに住む人々の暮らしの重要な一部であった。武器や食糧を貯え、戦乱の時には避難および篭城の場所となり、平時には神殿や王宮となっていた。中世ヨーロッパでは城塞は、城郭都市の防衛軍が最後に防衛する場所で、都市の陥落後も防衛側は都市の一角の城塞に立てこもり、いざとなれば背後の田園や丘陵に逃げられるようになっていた。

大砲の発達に伴って稜堡式城壁の研究が進み、塔と堡塁が都市を取り囲んで防衛するようになると、城塞もその重要な役割を占めるようになった。城塞は城壁と稜堡群の内部に置かれることもあったが、経済活動の場所確保のために外郭の一部をなすよう配置されることが多かった。敵が城郭の他の部分に攻撃を加えるような場合でも、城塞は最強の拠点として最後の防衛線となることが期待された。

アラビア語では城と呼んだ。アルジェリアなどでは城壁に囲まれた迷路のような旧市街がカスバと呼ばれたほか、スペインではイスラム教徒の残した城塞(カスバ)をアルカサバ(Alcazaba)と呼んだ。アルカサバはバダホスに最大のものがあるほか、グラナダのアルハンブラ宮殿の一部やマラガ、メリダにもアルカサバは残っている。

ロシア語では城塞は「クレムリ」(クレムリン)と呼ばれ、中世のロシアの各都市にはクレムリが設置されていた。現存するものでは、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、アストラハンなどのクレムリンが代表的なものだが、中でもモスクワのクレムリンとカザンのクレムリンはよく知られている。

海軍用語 [編集]
軍艦、特に戦艦の司令塔など主要部分も、城塞になぞらえ「シタデル」と呼ぶことがある。こうした部分は装甲板で覆われ被弾を防ぐようになっている。

2009年05月31日

澶淵の盟

太宗は太平興国九年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。

しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ち、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳二年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。
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澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なものであり、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという話が残っている。この逸話が示すように唐末から進んでいた中国の経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。

一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰[注釈 3]に於いて地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。

真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦四年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。

これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽修などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。

強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。

しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。

仁宗は40年の長き治世の末嘉祐八年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王・趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽修らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。